少年、少女、人形、両性具有、これらの言葉はもう10年以上わたしを捉え続けている。しかしわたしが、少年愛者、少女愛者であるかといえばそれは違うのだろう。実践を伴わないから名乗れないのだという訳ではない。稲垣足穂の少年愛を「飛ばない飛行機」に例えた澁澤龍彦の言葉のように、形而上でしかない愛であったとしても、名乗ることは可能に違いない。
結論を言えばわたしは、客体として消費され尽くし人格を自身の願望を通してしか顧みられない存在、を愛しているのである。そのような存在であるという最もわかりやすい記号としての“少年”“少女”を愛しているのだ。余剰なものを削ぎ落とし、過剰な理想を託して、視線によって濾過し、対象を人形化することによって、欲望は満たされる。
従ってわたしは自らを名乗るときには人形愛者だというのが1番しっくりとくるのではないかと思っている。
それからもっとも惹かれ続けている“両性具有*”という言葉、存在は、わたしにとっての聖域に近い。ネバーランドがどこにもない国だから永遠に憧れ続けられるように、けっして有り得ないから美しい。絶対に手に入ることがない完全な存在に、安心しながら恋し続けている。
両性具有になぜ魅了されるのかは以前に[
両性具有考]としてエントリをあげたことがあるが、また違う視点からも書くことが出来たら、と思う。
そして、いつまでもいつまでも、これらの言葉に魅了され翻弄され続けていきたいと願っている。
*(ここで記している両性具有とは性分化疾患者を指してる訳ではなく、物語上、もしくは観念上の両性具有者を前提としています)