快楽と欲望―舞台の幻想について快楽と欲望―舞台の幻想について
(2009/09/18)
渡辺 守章

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性差の揺らぎ、両性具有という「演技のテクスト」——
ベジャール、ノイマイヤー、フォーサイス、ミュラー、バルト……
バレエ、オペラ、能、歌舞伎、文楽、京劇などを横断しながら 現代における舞台芸術の可能性を問う。


読み始めました。

2015.02.01(21:39)|両性具有コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
薔薇王の葬列 1 (プリンセスコミックス)薔薇王の葬列 1 (プリンセスコミックス)
(2014/03/14)
菅野 文

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中世イングランド。白薔薇のヨークと赤薔薇のランカスターの両家が王位争奪を繰り返す薔薇戦争時代。ヨーク家の三男・リチャードにはある秘密があった。己を呪うリチャードは残酷な運命に導かれ、悪にも手を染めていくが……! ? ウィリアム・シェイクスピアの史劇「リチャード三世」を原案に描かれる禁断のダークファンタジー!



薔薇王の葬列(2) (プリンセス・コミックス)薔薇王の葬列(2) (プリンセス・コミックス)
(2014/09/16)
菅野 文

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争いは、佳境へ。深い絶望の中、復讐の鬼が咲く…。中世イングランド、薔薇戦争時代。両性具有の身に生まれたリチャードは愛する父が王になることを夢見ていた。王位奪還の戦いは勝機が見えたが、玉座を目前にして、リチャードの父は敵の攻撃を受け瀕死の状態に。父の危機を察し、剣を持ち立ち上がったリチャードの前に現れたのは“あの男"で……! ? さらに、おぞましくも美しい新たな敵の登場に、物語は混沌と化す…! ! ウィリアム・シェイクスピアの史劇「リチャード三世」を原案に描かれる禁断のダーク・ファンタジー! !


シェークスピアで有名な『リチャード三世』が両性具有の美しき姿で描かれています。現在二巻までコミックスが発売されていますが、とても魅力的なリチャードで、今後の展開が楽しみです。

2014.10.18(22:11)|両性具有コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
鼻が男性器を象徴し、口唇が女性器を象徴しているというのなら、ほら、この美しい生首はアンドロギュヌスといえるのじゃないかしら。線の通った高い鼻梁とふっくらとした蕾のような唇に、眠るように閉ざされた目蓋が愛おしい。ああ、わたしの祭壇に相応しいわたしの神様。
2012.11.06(22:30)|両性具有コメント(2)トラックバック(0)TOP↑
念を押すようだが、わたしにとっての両性具有とは、あくまでも観念上の存在であり、完全なる美の象徴である。極めて人工的な美を崇拝するということは、拒絶しきれない現実への、せめてもの抵抗の意思を示したいという欲望でもある。人間が創造した“完全なる人間”という夢。

ユートピア(理想郷)をどれほど希求してもユートピアに辿り着くことは不可能なように、一角獣を追い求めてもけっして一角獣をその眼で見る機会は訪れないように、存在しないからこそ至高の存在として愛することが出来る。眼前にユートピアが現れれば、それは理想郷ではなく、テーマパークとして認識することになるだろう。テーマパークは魅力的であるし、楽園の模倣、パロディの創造はわたしが愛しているテーマのひとつでもあるが、それはあくまでも楽園そのものではないという事実があってこそ成り立つ。一時の楽園の快楽を味わうことは可能かもしれないが、生活が入り込めばたちまち色褪せるに違いないことは自明であるからだ。

ルートヴィヒ2世が創りしノイシュヴァンシュタイン城のように、夢想家が夢想の力で補強して楽園と化すことはあるかもしれない。しかし創造主以外にはその力の恩恵を蒙るのは難しい。日常という脅威に晒されたときには、自分自身の力によって夢を強固にしていく作業が必然となり、そうなれば他者に夢を託す必要性は失われてしまう。想像してみてほしい。一角獣が発見されてしまったとしたら、それは白馬に角が生えているという馬の種のひとつとなり、幻想性は消失するだろう。図鑑にでも載ってしまえば、造形としてはキリンや象の方が奇妙にすら思えてしまうだろう。例えば、一角獣を造ろうと遺伝子操作により産まれたとしても、その夢を実現しようとする思想そのものに心惹かれはするが、実現することは幻滅を呼ぶ。蒼い薔薇がいつまでも不可能であってほしかったように。

完全なる両性具有はそのように現実には在り得ない美であり、その美を文学や音楽、芸術の力によって具象化しようとした作品をわたしは愛している。夢は夢で表現されなければならない。

そんなわたしの心を躍らせてくれた両性具有の作品を下に紹介したい。

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『聖多面体 Ⅴ ‐Icosahedron‐』 中嶋清八

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『アンドロギュヌスのマリア』 甲秀樹

2011.10.09(21:19)|両性具有コメント(0)トラックバック(0)TOP↑

「世紀末」には、「ヘルマフロディトゥス」は十六世紀初頭とまさに同一の傾向へと意識的に還帰しながら、ある(ネオ‐プラトニズム的な)「プラトンの性愛学(エロトロジー)」の本質的構成要件となる。ペラダンによれば、ヘルマフロディトゥスは「すぐれて芸術的な性」である。彼によれば、レオナルドは「ポリュクレイトスの規準(カノン)」を発見した。すなわち「アンドロギュヌス」である。これは芸術的な性である。なぜなら男性的なものと女性的なもの双方の結合であるからだ。レオナルドの「ジョコンダ(モナ・リザ)」がこの点で世界史的な寓意像と呼ばれる。彼女の中「もしくは彼の中」には、「男性のもつ頭脳的権威」と「魅惑的な婦人」のもつ官能性とが一体化しているのだ。「聖ヨハネ」像(レオナルドの作品)では、性はひとつの「謎」となっている。つまりレオナルドは「アニミズム的な」明暗法を発見したのである。ペラダンはその著『至上の悪徳』の中で、プリマティッチォの「美青年崇拝」とハドリアヌス帝の寵童アンティノオスのことを、レスボスの伝説的女流詩人と並べて讃美している。彼は小説『アンドロギュヌス』を書き(一八九一年)、その中で、俗人を寄せつけぬ「奇怪なマスク」、「男色的エロス」を(華麗な詩句で)謳っている。次のような詩句が見られる―「おお太初の性、おお孤独なる性、おお愛の絶対よ、形式の絶対よ。これぞ性を否定する性、永遠の性。おんみを讃う……アンドロギュヌスよ」と。
‐ 迷宮としての世界(下) 『ヘルマフロディトゥス』 ‐


迷宮としての世界(下)――マニエリスム美術 (岩波文庫)迷宮としての世界(下)――マニエリスム美術 (岩波文庫)
(2011/01/15)
グスタフ・ルネ・ホッケ

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2011.04.04(21:14)|両性具有コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
―または私は如何にして現実を直視するのを止めて両性具有を愛するようになったか。

と、『博士の異常な愛情』をもじるというあまりに使い古されたパロディで、しかもたいして上手くもないという哀しさを滲ませながら、この嗜好癖の始まりを書き連ねていきたいと思う。このブログに両性具有カテゴリが存在していることからも察してもらえるのではと思うが、わたしは形而上の、観念としての両性具有者に魅せられ続けている。どうして彼の存在を愛するようになったのか、を今一度振り返りながら書いてみるとしよう。

三島由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』では、幼い頃の主人公が絵本に描かれたジャンヌ・ダルクに魅せられるが、後にそれが女性であることを知って、失望した体験が書かれている。美しい青年が纏った死の芳香に惹きつけられたのだからその反応は自然なものだ。
似ているといえるのかわからないが、わたしもまた性別の誤認という洗礼、男性であると信じて心惹かれた登場人物が男性ではなかった、という体験がある。小学生の頃のことだ。わたしは父がどこからかもらってきた漫画を毎晩もくもくと読んでいた。そんなとき永井豪の漫画『デビルマン』を読む。わたしはその漫画の登場人物である飛鳥了に恋をしていた。主人公の親友である飛鳥了はクールでハンサムな男の子だった。しかし物語の終盤になると飛鳥了の正体はサタンであり、主人公の最も憎むべき敵であり、主人公に恋をした両性具有者であることが明らかになる。
衝撃だった。男性と思い込んでいた存在がいきなり乳房を持って現れるのだ。これが女であったならば、『仮面の告白』の主人公と同じく、失望や落胆することも可能だったのかもしれない。でも彼は両性なのだ。男でもあるのだから恋の対象としての位置が揺らぐことはなかった。それに、彼の豊かな乳房は、母の乳房に未だ愛着を持っていた子供には、平らな胸板よりもずっと素敵に思えた。もともと母と姉が大の宝塚歌劇のファンだったため、女性扮する男役が最もかっこいいとされている環境のなかで育ったので、ジェンダーの迷宮に彷徨っていた時期でもあったのだろう。そのときはまだ漠然とした興奮ではあったが、それがわたしの今に至る嗜好を決定付ける始まりであったことは疑いない。

中学生になった頃、わたしは鬱屈とした日々を過ごしていた。自己嫌悪が酷く鏡を見ると吐き気がした。女子であるということに罪悪感を抱いていた。みっともなくてだらしなくて成績も悪く社交性も協調性も欠けている。髪はぼさぼさで制服もすぐ皺だらけになっていて清潔感もない、およそ女子という言葉のイメージから想像する姿とはかけ離れた子供だったのだ。思うに思春期に差しかかっていく男の子にとって、“そういう子”が“女子”であるというのは何か許し難い気持ちにさせてしまうものなのかもしれない。だからこそ、「あいつは女子として認めていない」という類の言葉を何度も耳にすることになったのではないだろうか。あまり自身の性を認識することなく育っていたわたしは、学生生活のなかで女子であると勝手に強制されたうえにそのカテゴリから追い出そうとする圧力を受けるという、それはえらく理不尽な仕打ちを受けることになったのだ。
自信のなさ故に周囲の基準に迎合することを余儀なくされたわたしは、自らを“女子”ではないのだと定義せざるを得なかった。では一体何なのだろうか、という疑問がそこで芽生える。
自らを男性的であると思ったことはない。男の子が主人公の冒険小説は大好きだったが、自己の性自認について迷いを抱いたことはなかった。ただ“すべて”はわたしの外側に在るのだと感じるようになっていった。

そのような様々な障壁に躓き疲れ果てながらも、それまでの経験によって、わたしが最も欠けているものは美というものなのではないかと確信を抱くようになる。周囲を眺めれば、充足した美を与えられている者もいれば、少し程しか与えられていない者もいる。しかしわたしはどうだろう。一切与えられていないではないか。わたしは生まれながらにして美を持ち得ていない不具者である。美を欠片ほどでも持っていたならば、内側に入ることが出来たに違いない、という考えに固執していった。

周囲の女子より少しばかり遅い初潮を迎え、ますます不安定な精神状態を抱えながら、学校生活は続く。思春期の女の子が、少女と見紛うかのような美少年に、少年のような凛とした美少女に、羨望や憧れを抱くことは珍しいことではない。わたしもその一人だった。自らの性別の決定にいよいよ直面しなければならない時期に、ジェンダーの縛りから抜け出しているかのような様相は、もしかしたら逃避することが可能なのではないかという希望を齎してくれる存在だったのだ。相変わらずに“女子”であることに罪悪を感じていたわたしは当たり前のようにそれらの存在に執着していく。小説や映画、漫画に出てくる中性的な人物をA4ノートに箇条書きで書きとめるほどには熱をもっていた。
『風と木の詩』や『日出処の天子』などの、美は愛されるものであるという価値基準を前提に美少年が愛されている漫画はわたしの嗜好によく合うものだった。

<少女のような美少年は女性たちに愛されつつ男性から求愛されなければならない>
<少年のような美少女は少女たちに恋されつつ男性から求愛されなければならない>

あるとき、わたしの理念には、対称性が保たれていないことに気が付いた。上のどちらも女性に愛されつつも“男性”という愛を獲得することでわたしの心を満たしていたからだ。完全に対称とならないのはどうしてだろうか。性指向の問題なのかとも考えたが、わたしが両方の性別を持っていないことで、片側の性に属しているという事実ゆえに、不均衡を生じさせるのだと結論づけた。この結論からわたしはより完全な理想を考察することになる。自らが女であるという自覚から逃れるために模索していた思考によって、わたしは女という性別にいる、という認識を確立することになったのは皮肉な話である。

とにかく完全なものを追い求めていたわたしは、円や対称という概念は大切なものであった。発端が男性と女性の性差にあったのだからシンメトリー(対称)であることへの拘りが強く深いのも当然である。とりあえずなにが問題となるのかを考えていくことにした。わたしが愛したということでどんな形であろうと女性の愛を獲得することは成立している。ならば、問題となるのは男性からの愛情だ。

男性作家が少女への愛を語る小説は何度か読む機会があった。わたしは男性が少年を愛している文献を探すことにした。最初に手にしたのは、須永朝彦の『泰西少年愛読本』だったと記憶している。少年愛の小説が翻訳され収録されていた。そして、稲垣足穂の『少年愛の美学』や、中井英夫の『虚無への供物』なども含め、男性作家による少年愛が題材となっている本を読み進めていった。日本では衆道と呼ばれる少年を愛する行為が長らく行われていたことも知った。ああ、やはり美は両性からの愛を獲得する存在となるのだとわたしは喜びを覚えた。そんな流れから、司馬遼太郎の『新撰組血風録』に収録されている短編『前髪の惣三郎』を読み、第二次性徴の否定について考え始めた。新撰組隊士を恋に狂わせ破滅させていく若者、惣三郎は18歳を過ぎても前髪をおろしていない。あの時代の男子は前髪があるということは大人ではないということになる。惣三郎は、稚児の時代を過ぎていてもなお前髪の似合う、愛される対象として、魔性を体現している。自らの意思により前髪を残すことで成長を拒絶し、保たれた美によってそれを成功させている。
年齢による性差の広がりを拒絶し、未分化の性であり続けるという魅力。未成熟であるということは老いという緩やかな死から最も遠いところにある。生殖とは関係なく愛されることだけを享受できるのだ。

成長の拒否という主題に興味をもったわたしは、それにより少女に対する嗜好にも変化が訪れる。今までは中性的な少女を主眼においていたのが、女に成る事を否定した少女にも強烈な魅力を感じるようになったのだ。そこからいわゆるロリィタな文化への敬意や、永遠の少女と腐敗しない屍体への憧憬がイコールで結び付けられて、それらが混ざり合ってわたしの人形愛嗜好へとも繋がっていくのだが、ここでは省略しておくとしよう。

それでもわたしは未成熟であることを肯定し続けることはできなかった。自分の体が大人へと変化していったからかもしれない。子供のときにみた豊かな乳房を持つ飛鳥了の絵が脳に焼き付いていたからかもしれない。そうして、成熟しながらも未分化である存在を求め始めた。
ここで吸血鬼という概念が現れてくる。若くありながら老年でもあり、繁殖(同種族を殖やす)行為を血液によって媒介することで、性別というものが限りなく無意味となっていく。永遠の命を与える選択は吸血鬼自身に任されているため、唯美主義世界に陥っていきやすいと考えられる。美しい者だけが選別されていく素晴らしき理想郷。吸血鬼幻想はこうやってわたしの嗜好へと取り込まれていった。吸血鬼=生きている屍体、という連鎖から前途の永遠の少女への憧憬とも関係していくのだが、やはりここでは省略しておきたい。

しかし、それでも完全にはならないとわたしは苛立った。シンメトリーへの拘りが、吸血鬼に魅了されながらも、美しい青年に血を吸われる美しい女性というモチーフにもっとも心惹かれてしまった事実をもって、由とするわけにはいかなかったからだ。

迷走は続く。江戸川乱歩の『孤島の鬼』を読んだときに何か近づいてきたという感触を得た。人工的にシャム双生児とされてしまった二人の男女。無垢で美しい心を持つ美女と邪悪な心を持つ醜男。人為的とはいえ一体の身体に男女、正邪、醜美を持っている。美という概念に拘泥しながら、ここで醜のあり方に感銘を受ける。醜によって成立するのが美なのだとすれば醜さとは思っていたよりもずっと力を持っているのだ。わたしはこの発見に嬉しくなったのだが、ただ問題となったのは、どちらかの性がどちらかの性の為に貶められることは避けたいという気持ちだった。これは少年愛の物語や、少女たちだけの閉じた世界の物語でも、何度か感じていたことだった。片方の性を殊更に蔑み否定することにより称賛を補強するやり方は不公平ではなかろうか。今ではその潔癖さ故の倒錯した世界も好ましく思えるのだが、あの時期はとにかく被害者意識が強く鬱屈としていたので、過敏にならざるを得なかったのだ。

澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を手に取ったのはそれからすぐ後のことだ。とうとう答えをみつけることが出来たと、わたしは泣きたくなった。収録されている『アンドロギュヌスについて』を何度、何度読み返したことだろうか。両性具有(アンドロギュヌス)は、男性と女性の両方の性機能を備えている。成熟した肉体でありつつ、第二次性徴によって顕著となっていく変化、男性の逞しくなっていく身体や、女性の丸みを帯びていく身体は、混ざりあうことで相殺され、少年少女という、最も両性が相似していただろう時期の容貌を持ち続けることを可能としている。女の鍾乳洞と男の水晶鉱石を持つ、美しい円のように完全な存在。愛するものをわたしはやっとみつけることが出来たのだ。幼少期に恋をした飛鳥了にようやく帰りついたとも言えるだろう。

そこからわたしは両性具有という観念の美を自己の聖域とし、それを規範として両性具有性があるものを集めていくようになった。書物、芸術、音楽、ファッションと、たとえ誰もそうとは理解してくれなくとも、わたし自身がその規範のどこかに触れていると感じたならば愛すべき対象となる。

まぁ、両性具有であるからといって、サナダムシまで愛おしく思えてしまう近頃の自分には些か問題がある気もするが、中学生時代に自己の核となる嗜好をみつけたことで、さまざまなものを好きになることが出来たことは事実である。世界がそこから広がってきたように思う。

最後に、美への称賛と同時に醜さを徹底的に貶めているかのような文章を連ねてしまったが、「わたしは醜い」という劣等感によって長年醜形恐怖症を患い続け、そこに歪んだ愛着すら覚えて、今に至っては、美を追い求めることは歪を生み、いつしか歪こそが美へと変容していくのだという考えに囚われ始めている者が綴った、強迫観念による救済の為の文章なのだと思っていただけると嬉しい。
2010.09.19(23:46)|両性具有コメント(4)トラックバック(0)TOP↑

篤は肘を折り曲げて、その尖った稜を私に向けて差し出しながら酔って唖っていた。見るとそこ、彼の肘には、蜜で濡れたひとつの「女陰」があった。
「なあ、凄えだろ、俺の左肘。ちょうど肘の内側に突起した疣があるんだ。ハハハ。よくできてやがんだろ」
肘をきゅっと折り曲げた内側に、ふっくら盛り上がった肉に挟まれて、一本の「筋」が顕れていた。そしてその筋の行き止まりには、篤のいう突起が、ひかえめに顔をのぞかせ、全体が、あたかも閉じた女陰を思わせるのだった。篤は自分のそこにべっとりと蜂蜜を塗りたくり、べろべろと舌を這わせてそれを砥めていた。
「ああ、うんめえ。こんなに猥褻で淫らな道具を、俺はいつも片手に持ち歩いてるんだぜ。どこにいったって、いつだって、これさえあれば俺は用を足せるんだ」
「自己胚胎する花……、ヘルマフロディトス……、アツシ、お前は、此岸に堕胎せられし天使か怪物……、両性倶友の神、あるいは化け物だ」
「そら、どうだ、一口」
私は施しを享ける貧者のように、恭しくそれを舌で掬った。だが、当然ながらこの私に、女陰は何の感興も沸かせはしなかった。

- ロンバルディア遠景 諏訪哲史 -


ロンバルディア遠景ロンバルディア遠景
(2009/06/17)
諏訪 哲史

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2010.02.03(23:19)|両性具有コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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中嶋清八『アリスを演じる少年 -Le garcon qui joue le role d'Alice-』

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甲秀樹『アリスとチェシャネコ』


先日スパンアートギャラリーで『アリス百花幻想展』をみてきた。展覧会そのものの感想はまた別の機会に書けたらと思いつつ、今回はそこで展示されていたふたつの作品から感じた、少年がアリスの世界に介入することで生まれる両性具有性についてを、思ったままに綴ってみるとする。

アリスと少年といえば長野まゆみの『少年アリス』という小説がある。その世界は両性具有というより植物的な無性の世界だ。ここでの少年に付随している、“アリス”という名の役割は、不思議の国に少年を誘うこと、少年から男根を奪うこと、にあったのだと思う。

だけれどわたしは、“アリス”が少年を無性へと導くことはないだろうと考える。周知の通りにアリスの名は今では少女の代名詞的な存在となっている。アリス、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』はグロテスクな物語だ。奇妙なストーリー、偏執的な言葉遊び、醜悪な造形のキャラクターたちが織り成すそのグロテスクな世界を縦横無尽に突き進んでいくグロテスクな少女、それがアリスである。そのアリスが他の多くの少女像を押しのけて“少女という生き物”の座に君臨しているということ。そこに理由を見出してみるならば、それは少女という生き物が元来グロテスクをはらんだ存在であるから、に他ならないだろう。そして対となるべく少年からはそのグロテスクさを見出すことは不可能なのだ。ならば、少年にアリス性を付加するということは、少年にグロテスク(子宮)を保有させることになるのではないだろうか。
アリスを演じること、アリスに扮すること、それだけで少年は両性具有者となる。アリスが持つ少女性とはそれほどに強いのだ。
2009.12.10(23:12)|両性具有コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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いつきたかし『MAMA』

2009.06.30(22:28)|両性具有コメント(3)トラックバック(0)TOP↑

ボーイがひとり。かれは美しい天使でなければなりません。それも森永の幼児的エンジェルではなく、たおやかな青年でかつ端正な少女、つまりアフロディテの乳房と清らかな葉巻形のファロスの両方をそなえた両性的天使でなければなりません。この天使は天井にとまって休んでいて、お客がくるとその純白の翼で舞いおりて、少量の毒薬媚薬をまじえたまっ黒なコーヒーや悪血をしたたらせた酒を運ぶ……あたしはこんなお店をおもいえがき、ママの驚きをおしきって、中世のくらやみを、あるいは血の色をした太陽の浮んでいる真夜中を、少しずつ、店にみたしていきました。


『聖少女』の小説内で未紀がプロデュースした店『モンク』を描写した文章からの引用。


聖少女 (新潮文庫)聖少女 (新潮文庫)
(2008/01)
倉橋 由美子

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2009.06.21(22:52)|両性具有コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
プロフィール

古谷 葵

Author:古谷 葵

Blog title:
Koumori to Namekuji no Utage

箱詰人形などとも名乗っております。
怠惰な日々を過ごし中。
twitter:@hako_guru
mail:hako.zaregoto@gmail.com

猟奇唄
猟奇唄 (上) コシーナ文庫
猟奇唄 (上)間 武

三行詩集『猟奇唄』の表紙絵と挿絵を描かせていただいてます。
取扱書店:ジュンク堂池袋店/大阪中崎町・書肆アラビク/アマゾン
Dodgson Vo.1
◆Dodgson Vo.1 「漂流少女」◆

幼女に関する短編小説&考察を寄稿させていただいています。
書肆CAVE
箱詰人形セレクト

ギャラリーCAVEさまのオンライン古書店<<書肆CAVE>>にて、わたくし箱詰人形がセレクト致しました“箱詰人形セレクト”なるカテゴリを設けていただいております。
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