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『喪失』

『喪失』と題されたこの作品を直に拝見したのは、大阪のアートスペース亜蛮人で開催された、『黒き血の宴~幻想耽美展』でのことだった。セピア色の色調に水彩絵具を滲みませながら丁寧に色がのせられて描かれている横田沙夜の作風は、見るものに柔らかく優しい印象を与える。下半身を露にし、ハサミで性器を切り裂いているかのような姿は、存分にエロティックでありながらも、不思議と厳粛な空気を纏っている。肉体は静謐さを湛え続けている。
横田沙夜の作品の魅力のひとつが“抑制”であるとわたしは感じる。どのような状況下にあっても少女たちは激しい感情を表層に出現させることはない。少女たちの表情を抑制することにより、精神内に広がる深遠さを垣間見ることができるのだ。そして、制御不可能な力によって創り上げられた世界に綻びを生じさせないために、細心の注意が払われているかのような緊張感が作品全体に張り巡らされている。

幼い頃に語り聞かされた童話には、血と暴力とエロスの匂いが潜んでいることを、子供たちは鋭敏な嗅覚で感じとる。窮屈に押し込められた“愛らしい子どものための世界”には綻びがあるということに気づかされる。それは救済へと変化する。横田沙夜の世界はその“綻び”そのものなのではないだろうか。だからこそ描かれた世界に綻びを生じさせることは、破綻へと繋がってしまう危険を孕んでいるのかもしれない。

少女から女へのイニシエーションとも云うべき、処女性を喪うことを示唆している『喪失』だが、その儀礼が少女性を揺るがすことはない。まるで咲くことを拒絶した蕾のように、少女は永遠の少女としての存在を誇示している。横田沙夜の少女たちは、目覚めることがない硬く閉ざされた蕾のなかで、甘い蜜の夢を紡ぎつづけているのだ。

横田沙夜サイト: christa
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2011.02.11(13:47)|展覧会感想コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
画廊・珈琲 zaroffにて開催されている岩切等氏の写真展は、街々のなかにひっそりと佇んでいる、奔流の如き時の流れからは切り離された、しかし確かにその場所に息づいている建物たちの姿が映し撮られていた。モノクロームの絶妙なコントラストが艶やかで、岩切等の眼で見た世界は、わたしが常日頃認識していた世界を、こうも美しく変化させることが出来るのかと驚きを覚える。写真を観るという行為は、撮影者の精神世界に接触し、同調することでもあるのだと改めて感じた。写真展の題である『憂う街』という言葉が視覚とともに脳に浸み込んでいった。

下に紹介している書籍は岩切等氏が撮影したフォトエッセイ本。こちらも拝見させて頂いたが、様々な廃墟の写真が収録されていて、とても素敵だった。わたしが廃墟写真を観るのが好きなのは、廃墟そのものが好きなのはもちろんとして、写真家によって廃墟の何に想いを馳せるのかという違いを感じられるのが楽しいことも大きい。『失楽園物語』の世界の廃墟は、まさにわたしが“想いたい”廃墟の世界であった。

岩切等写真展『憂う街』は11月16日まで開催中。

失楽園物語失楽園物語
(1992/06)
板橋 雅弘岩切 等

商品詳細を見る

ひなびてしまった宿、永久に工事中の道路、建設されたまま実際にはほとんど使用されなかった地下鉄のホーム…。本来の役目を終え、かつての栄華を引きずりながら今はさびれ、ひっそりと残っている"昭和の遺跡"の記憶を写真と文でたぐりよせる。


2010.11.08(23:06)|展覧会感想コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
YASUDA ART LINKで6月6日まで行われていた【 大あや野展“ゴミが咲く” /西川祥子個展 Logos /堀江ケニー個展 End of Days 13 】がとても楽しかったので感想をここに記しておきたく思う。

展示は、三人の同時個展ということで三部屋で展示が行われていた。

あや野
さんの展示室に入ると、室内の四方の壁いっぱいに作品が展示されていた。幼少の頃のお絵かきから現在の作品までが同線上に並んで展示されているのが面白い。作品からはエネルギーが溢れ出ていて、このエネルギーは幼児の持つ生命力に近しいように感じつつ、いや寧ろ小児性欲に支配されていた時代の開放感を再び取り戻そうとする欲望のエネルギーといえるのじゃないかなとも思う。展示室は脳内を晒け出すことで脳内麻薬の分泌を促すような一種の楽園が創り出されていて、その楽園は、例えば遊園地のように楽園の模造を追求しながらも大人の倫理の介入により暴力と性欲が綺麗に排除され整理整頓された世界とは違い(それもまた歪でとても好きではあるが)、欲望を限りなく純化して幼児退行世界へと到達していくことで、ひたすら笑いながら、泥の水溜まりに飛び込んで、蟻の群れを踏みにじり、口の周りを飴でべたべたに汚して奇声を発している子供の、成人ならば狂人や精神遅滞と見做されるのであろう行動をもう一度やりたいという欲求を喚起させてくる。そして、大事なことだと思うのはこの幼児世界は“女の子“の暴力的エロスで構成されているということだ。女の子であることは揺るぎがなく、アイデンティティの全てのようでもあって、そこから取り巻く世界が存在している。それが強いエネルギーを放つ源なのだろう。

西川祥子さんの作品は古い洋書や楽譜のページに線を書くのではなく焦がすことで絵が描かれていた。古い本に印刷されていた言葉は、焦げることによって連なりという規則を失い、意味ではなく形としての存在を主張する。それによって文字の象形の美しさが浮き彫りとなる。極めて視覚的な美の世界だ。セピア色の紙に焦げ茶色という色彩、インクの色、古本の紙質、描かれた天使や洋梨、薔薇などの絵が眼と脳を楽しませてくれる。書物は世界で、世界から言葉が失われること、紙が火によって消滅してしまうことは、けっして取り戻すことは出来ないのだとわたしたちは知っている。その事実により与えられた喪失感はノスタルジーとなって心に刻まれる。焦がすことで描かれているということは、喪失によって生み出されている美とは、ノスタルジーによって描かれているということと同意義なのだ。展示室でみた作品は、過ぎ去っていった様々な出来事が、痛みも悲しみも含めて美しいカタチとなりここに在るかのようで、綺麗だなぁと切なく思った。

最後に写真家であり音楽家でもある堀江ケニーさんの展示室に入った。壁には一列にモノクロの幻影的な作品が展示されている。そして真ん中には写真作品の中にも登場している天蓋付きのベッドが、大きな兎の頭が、林美登利さんのお人形や大きな時計が、絶妙な配置で飾られていた。アリスの飛び出す絵本やぬいぐるみも設置されており、その全てが完全に調和していて、アンティーク風の可愛らしい空間が創り出されている。「かわいい、かわいいかわいいかわいい……」と口のなかで何度も呟きながら眺めてしまった。堀江ケニーさんといえば、公園にあるタコ型などの奇妙な遊具と黒色すみれのさちさんを一緒に撮影した写真集『タコさっちゃん』が出版されていて、これはわたしのお気に入りの一冊でもある。人々が何気なく通り過ぎている場所に確かに在る不思議で奇妙なもの、何か異世界の匂いがするもの、を見つけ出す嗅覚とも言うべき感性があるからこそ、綺麗で可愛くてでもやっぱり不思議な世界、を表現することが出来るのだろうなと感じた。また作品を拝見したいと強く思いつつ室内を後にした。
2010.06.11(23:02)|展覧会感想コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
清水真理・人形展「片足のマリア~Strange Angels Garden~」』が終了してからもう一月以上が経ったというのに、わたしの心はいまだ隙あらば人形たちが展示されていた“異形のサアカス小屋”へと戻ろうとしている。そこにいた腰の一部が結合している双生児のように、あの空間で得た記憶と感覚が、わたしの背中にべったりと癒着したまま離れない。

今回の展示が行われたギャラリー“パラボリカ・ビス”は、薄いオレンジ色をした建物だ。その素朴な外観からは内部でいかに濃密な世界が繰り広げられているか想像もつかないに違いない。今回の会期中にわたしは二度そこを訪れた。一度目はヴィクトリアンアンダーグラウンドパフォーマンスグループ『Rose de Reficul et Guiggles』による退廃と倒錯の美に溢れた迫力の舞台を楽しむため、二度目は清水真理さんの人形を再度じっくりと拝見し、その世界を堪能するためである。

建物に到着するとまずは二階で展示料を支払ってから人形のある一階の展示室へと向かった。重い扉をゆっくりと開けると壁も床もコンクリートに囲まれた物寂しい部屋があらわれる。そこに深紅の布で覆われた空間が出現していた。まるで相も変わらぬ町並みを歩きながらふと横道に入ってみると目に飛び込んできたテント小屋のような、空想のなかに住む古きロンドンの巡業の如き趣きがある。天井から青い魚のオブジェが下げられていて、それが矢印となってテントの中の順路を示してくれていた。

今回のテーマであるフリークスにならって展示されている人形はみな一様に異形である。それぞれの人形にはタイトルと共に物語が一文添えられている。そこには、実在の人物についてであったり、神話がモチーフとされていたり、なかには悪名高いナチのメンゲレ博士が行った実験体としての双子の逸話や、岩井志麻子の恐怖小説『ぼっけえきょうてえ』がそのまま題とされている人形もある。特徴とすべきは、殆どの人形たちはみな、ファンタジーの産物としての異形ではなく、かつて医学書で眺めたことがある自然に産まれた畸形の姿をしているということであった。

画一的でない身体が禁忌であった時代から倫理問題により不可侵の存在となった時代の歴史なかで、見世物として特別な身体を誇っていた時代も確かに存在した。その身体は恐怖と神聖を、嫌悪と憧憬を、矛盾する様々な感情、もしくは純粋な好奇心を引き起こさせることで人々を楽しませ惹きつけていた。そう、“不具”ではなく“特別”であったのだ。現代では道徳の名の下に、畸形に対しての諸々の感情は密やかに語り継いでいくしかなく、その秘密裏の語りのなかで、かつての見世物小屋のフリークスたちは幻想の力によって補強され、人権への蹂躙は美によって看過された。

そして今展示では清水真理の手により、幻視者たちの力により新たな意味をもって変容していった畸形たちが、人形という存在で具現化されたのである。

コンクリートの壁と赤い幕とで二重に外界から遮断された空間で、抑えられた照明のなか、愛らしくも無垢な容貌をした異形の人形たちに囲まれていると眩暈に襲われたかのように酩酊とした心地になってくる。過剰や欠損した身体が並んでいるなかでは、正しき形など存在しない、ならばわたしもまたひとつの異形の肉体としてここに立っているのだ。そう考えると足元が揺らぎ現実が希薄となっていく。人面瘡の女性、結合性双生児の少女たち、両足が分割していないが為に人魚となった少女、脚の関節が逆に曲がることから駱駝と呼ばれた少女……、皆が大きなガラスの目でじっとこちらを見つめている。

布で仕切られた最奥の部屋では、他の部屋の人形たちと違い、人工による畸形の姿が多く見受けられた。展覧会の表題となっている不老不死になるために改造され続けている少女『片足のマリア』をはじめ、肢体に刺青を入れている少女、纏足された足をこちらに掲げて誘惑しているかのような少女など、美を求めることが歪みに繋がり、歪みこそが美へと変質していった人間の業の深さを感じつつも、それらを純粋な美に昇華せしめている清水真理人形の魅力に圧倒された。

今展示のフリークスたちは、精神との連動で身体が表現されているわけではない。“かたち”そのものを純度高く抽出し、神性を付与させ、異形美という名のゴシック美学が凝縮した絢爛たるサアカス小屋の世界が創造されていたのだった。

どうやら、わたしはもうしばらく“そこ”から逃れることは出来なそうだ。
2010.04.12(23:25)|展覧会感想コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
先日、西牧徹・林アサコ二人展『貪婪の戯画』展を拝見してきた。ギャラリーでは西牧徹さん、林アサコさんとお話しさせていただいたり、[All Tomorrow’s Girls]のfumi_oさんにお会いしたりなど、作品拝見とともに楽しく充実した時間を過ごすことが出来た。最も印象に残った、西牧徹氏の新作『海灯』と林アサコさんの新作『かのこ』の、二作品の感想を忘れないよう記しておきたく思う。

『海灯』は美しい作品だ。夜、電灯の点された暖かい家のなかで、キエムクー(西牧徹の“福画”として創られたキャラクターで姿形はクマに似ている)がうたた寝をしている。テーブルには飲みかけのホットコーヒーが一つ。後ろに見える窓の外では、雪が深々と降っていて、静寂が時を包んでいる。眠るキエムクーは夢を見る。夢は夜の闇と溶け合い流れ出て、いつしかそこは深い海へと繋がっていく。大きく細長い滑らかな魚が、キエムクーの夢を、夜の海を、悠然と泳いでいる。無限に広がる静謐な世界。西牧氏の作品は、“艶画”“福画”を問わず、子供の頃の記憶を感覚を揺さぶり呼び起こされることが多いが、今回の作品では更に深遠に在る古い記憶に触れられたような感覚がした。寒い夜に暖かい家に守られて眠りにつく幸福のなかで、いつかいた懐かしき海へと深く深く潜っていく。それはまるで胎内回帰のようでもある。鉛筆で細緻に描かれている幻想世界はわたしの心に静かな温かさを灯してくれた。

林アサコさんの作品『かのこ』は、ギャラリーに足を踏み入れた瞬間、一番最初に目に飛び込んできた作品だった。華やかで大胆な色彩は視線を絡め取り引き寄せる。見ると紫色を帯びた大きな貝の中から女の子が顔を出していた。御膳に置かれたこの貝は新鮮な海のご馳走なのだろう。女の子の、曲線で描かれた肢体と輪郭、真夏の日差しに照らされ溶けていく飴玉のように甘くぺとっとした皮膚感覚を呼び起こす瞳、磯の香りと潮風が浸み込んでいるであろう頭上に二つに結われた黒い髪……、貝は鎧となっている殻を抉じ開けてしまえば、弾力のあるつやつやとした美味な肉が隠されている。噛めば弾けて濃厚な汁が口の中いっぱいに広がっていく。婀娜めいた憂い顔を浮かべているこの女の子も同じである。なんとも美味しそうなのだ。生殖目的ではない性行為は快楽であり、生命維持ではない食も快楽である。飽くなき欲望に身をまかせれば退廃に身を滅ぼし何れは悪臭を放つこととなる。今回の展覧会の題である“貪婪”に相応しく林アサコの描く女の子は見る者の欲望を駆り立てる。しかし、間違ってはならないのは誰よりも貪欲なのは描かれている女の子たちの方であるということだ。欲望も何もかも余すことなく飲み尽くし、それでももっと欲しいとねだっている。恐ろしくも美しく強靭でいて柔らかい女の子たちは、まるで“海”そのものだ。だからこそ魅了され続けてしまう。

二人の作品から感じた姿も性質も違うそれぞれの“海”と戯れたひと時だった。

西牧徹/黒戯画世界 Blacken Caricature/Toru Nishimaki
林アサコ's Portfolio
2010.03.11(23:13)|展覧会感想コメント(2)トラックバック(0)TOP↑
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【 Dollhause Noah展 】
場所: 月夜のサアカス 期間: 2010年1月31日(日)~2月15日(月)

『月夜のサアカス』で人形作家・埜亞(Noah)さんのお人形をみました。『月夜のサアカス』は秋葉原駅の喧騒から少し離れた場所にあるcafe&diningです。店内は落ち着いた雰囲気ながらも、アンティークの家具やお人形、棚に並べられた書物たちなど、オブジェ嗜好と美意識へのこだわりが随所に感じられる素敵な空間がつくりだされています。珈琲、紅茶はもちろんお食事も美味しく、わたしはグリーンカレーがお気に入りとなりました。時間を忘れて過ごせるお店です。

埜亞さんのお人形はそこに展示されていました。空間と人形とがあまりにも違和なく溶け込んでいるので、お人形たちの微睡と静寂の時間を、無粋な足音によってお邪魔してしまったのではと心配にすらなってしまいます。

Dollhause Noahの人形は少女です。この少女は、幼さを纏っていながら同時に成熟した“女”も内に秘めているような娼婦的エロスには属しておらず、そのままに幼児(おさなご)の乳白色の真珠のような少女性とも言うべきエロティシズムを誇っています。女の雛形としての少女を拒絶し、完成されている存在としての少女を肯定している。ここに見る“少女”は、もはや独立したひとつの性とも言えましょう。

大島弓子の漫画『バナナブレッドのプディング』で主人公の衣良が化粧をしている姿を大切な人に見られてこう泣いたのを思い出します。

『ヌードよりも露骨よ 髪に花つけて くちべにぬって ほおべにつけて 自分がいや!! 自分がいや!!』

初めて読んだとき、ああこれが“少女性”だ……、と嘆息しました。埜亞さんのお人形の前に立つと、そのときの感覚が甦ります。“少女の時”でもなく“少女性を持つ”のでもない、“少女性そのもの”が人形として顕れている。その完結した愛らしさを暫し堪能させて頂きました。

サイト: Dollhouse Noah's Gallery
ブログ: Iphigenie
2010.02.09(23:29)|展覧会感想コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
森馨人形を目の前にして欲望することを止められるものだろうか――

去年のヴァニラ画廊で催された『森馨人形展』では人形作家・森馨の手により創り出された何体もの少女(と少年)人形を拝見することが出来た。遅くなってしまったが、そのときの感想を記しておこうと思う。

レースのコルセットを身に着け微笑んでいる人形、薔薇に貫かれて肢体から血を流している人形、四肢を喪失しながらも微笑んでいる人形、裸身を露に処か遠い眼差しを湛えている人形、髪の色も瞳の色も、表情も容姿も様々な人形が並んでいるが、その美貌は共通している。巴旦杏の形をした眸、鼻梁のすっきりと通った小さな鼻、肉厚な花弁のようにぽってりとした唇、卵型の輪郭……。そして特徴的なのは、この人形たちには皆はっきりと形作られた性器が拵えられている。森馨人形は美しい。美しく、象牙のように滑らかなエロスの結晶だ。

一体の人形を前にする。控えめながら形の良い乳房はばら色に彩られて、この乳房から滴る乳は薔薇の香りがするのではないだろうかと思う。人形の両の足の間は小さく隆起していて、甘い蜜が溢れる蘭の花のような、琥珀のなかに潜むエロティシズムにも似た、蠱惑的で侵しがたい禁忌に誘われる。人形の硬い肢体の内には仄かに灯る襖火が、冷たい身体を内側から熔かしていくような熱さが在るかのような錯覚をする。それは鏡と同じ作用を齎していて、つまりはわたしの内が熱く火照っているのだ。

映像作品も展示されており、ヘッドホンをあて機器を覗くと様々なシチュエーションで撮影された人形たちの写真が音楽とともに映し出されていった。眺めているうちに、一枚一枚の写真は自分が殺してしまった少女たちなのかもしれないと、恐ろしく甘美な妄想がわたしを支配していく。わたしはその妄想を肯定してみる。

少女(少年も含み)たちは紛うことなくファム・ファタルであり、エロティックな夢想に誘いながらもけっして触れ合い交じり合うことの出来ない聖処女だ。もし少女らが生身であったならば、少女の愛を得られないことに耐え切れず、もしくは少女を自分だけのものにするのだという抗い難い衝動に追い立てられて、いや、または、幾多の理由の中で、少女を殺めしまうだろう。少女は殺められてしまうだろう。あくまでも彼女たちの瞳の奥は空無であり、視線を、欲望を、そのままに受け容れてしまう存在だ。そのように深き瞳に己の姿が映されていることを認識してしまえば、少しばかりの狂気を心に宿すのは当然とも云えよう。

しかし、“もし少女らが生身であったならば”と書いたこの言葉は、あまりに多くの矛盾を孕む。なぜなら人形でなければ上記の魅力を持ち得ることは不可能だからだ。欲望を遂げるためには生を得なければならない、けれども人形でなくては欲望することはない。人形愛のパラドックスに陥りながら、森馨さんの人形は美しいと、ただその真実のみを心に刻み、ゆっくりと会場を後にしたそんな日であった。


眠れぬ森の処女(おとめ)たち (TH ART Series)眠れぬ森の処女(おとめ)たち (TH ART Series)
(2009/12/11)
森馨

商品詳細を見る
2010.01.29(01:02)|展覧会感想コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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【 こだま美瑠兎展 “ L'Image ” 】
場所: 大阪 乙画廊
期間: 2009年12月9日(水)~12月19日(土) *12日(土)17:00~レセプションパーティー

作家A・ロブ=グリエの妻、カトリーヌがジャン・ド・ベルグの偽名で書いた「イマージュ」50年代のフランスで発表直後に発禁となったこの問題作を、アーティストこだま美瑠兎が新しい感性をもって現代に甦らせます。甘美かつスタイリッシュなエロスをご堪能下さい。


サイト: MIRTO こだま美瑠兎ウェブサイト

こだま美瑠兎さんの作品を眺めていると(web上でしかまだ拝見出来ていないのだけれど)、作品内の人物はどんな香水をつけているんだろうとついつい想像してしまう。ゴージャスで、それでいてとっても甘い香りがするんじゃないのかな、と。女性が女性であるがゆえに与えられた物、それらを彼女たちはとても軽やかに、もっとも上等な手段で楽しんでいるように見える。お化粧にもファッションにも、きっとこれっぽちも妥協することはなくて、そんな姿は実に自由だ。
コケティッシュな顔立ちと豊満なバストに細く長い直線的な手脚を持つ女性たちが、ボンデージ要素の強い服装やアクセサリで身体を飾り、エロティックな遊戯に耽っている。その、線とフォルムの美しさは目を惹きつける。
かっこよくて愛らしくて、刺激的だけど甘くて、クラシカルで現代的。そんな女性たちが織り成す“こだま美瑠兎”の世界を堪能出来る日を楽しみにしている。

追記
スパンアートギャラリーで開催された『アリス百花幻想展』にてこだまさんの作品を直に見ることが出来ました。素敵でした。
2009.11.30(21:52)|展覧会感想コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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【 湯真藤子展 YUMA TOUKO Exhibition 】
場所: 東京都中央区銀座「株式会社木之庄企畫」 期間: 2009年7月10日(金)~7月22日(水)

湯真藤子展をみてきた。ギャラリーには寓話世界を題材として描かれた油彩作品が並んでいる。女性となった牛、女の子の姿をした子羊、女性と化した長靴を履いた猫、老婆に髪をとかされる女性、うさぎの縫い包みを抱きしめる少女、眠れる美女に薔薇の花を捧げる骸……そして、唯一の男性でもある初老の吸血鬼……。
湯真藤子が描く女性の容貌は大変好みで、うっとりしながら見蕩れてしまった。憂いの含んだ瞼からうっすらと覗く瞳、ぽってりとした花弁のような唇から微かに見える白い歯、小さく尖った形の良い鼻、艶やかに輝く肌と絹糸のような髪、絶妙なバランスで描かれているが故に溢れ出てくる官能美に魅了される。作品のなかの小人や老婆のデフォルメされた身体とリアルな容姿のアンバランスさがインパクトがあって面白い。眠れる美女を題材とした作品『THORN ROSE』では、描かれている骸が完全に骨と化しておらず、口もとに僅かばかり肉体の跡を残しているのも面白く思った。
最新作であるバンパイアの作品は、その蝋で造られたかのような肌もどこか常人とは違うと感じさせられる表情も、まさしく吸血鬼でしかありえないという容貌で惹きつけられた。鶏を抱き、鶏の体に刺さったチューブからまるで点滴を受けるかのように、血液をワイングラスに運んで飲んでいる。抱かれている鶏はただ静かにその役目を享受していて、バンパイアとの間には確かな愛情があるのだということを伺わせる。そして、全ての生物と別れていく運命を持った吸血鬼の哀しみも思った。   
素晴らしい個展で、また作品を拝見したいと思いながら会場を後にした一日だった。

サイト: 湯真藤子YUMA TOUKO Art Works
2009.07.19(22:41)|展覧会感想コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
先日、ヴァニラ画廊でプラショウの世界展、同ビル内にあるギャラリーミリュウで根洋一展をみてきた。

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プラショウ展は入館料千円と少々高め。しかし、古代ギリシアにあったとされる牧人たちの楽園“アルカディア”に強い憧憬を持ち、写真を介してアルカディアという一種のユートピア幻想を、凝縮した形で表現しているプラショウの写真は眼福であった。裸体の少年少女が身を寄せ合い、その姿は牧歌的な印象を受けるが細部まで演出されている。写真技術の歴史についても調べたく思った。

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その後は3階へ降りてギャラリーミリュウへ。
『ガクブチショー』と題された展覧会では、極彩色に彩られた少女たちが描かれており、その周囲は額縁ようにざまざな装飾的な絵で埋められている。
色彩は上のDMでみるよりもずっと鮮やかで目の裏にまで焼きつくほどだ。ガクブチと化した装飾絵がまるで浮き出ているかのように錯覚する立体感も実際に見ないと味わえないと思う。
女の子たちは裸体の子が多いが、なかにはゴシックロリータの格好をした子などもいて、ピンクの髪、青い髪、緑の目、黄色の目……、どの子も共通して独特の強い色を放っている。
そして、丸みを帯びたなめらかな体、小さくぷっくりとした唇、つんっと上を向いた鼻、猫を思わせる大きなアーモンド形の瞳……、どの瞳もビー玉のように透明でじっとこちらを見つめている。
デカダンスなモチーフと“けばけばしい”とも称される色彩を纏って並んでいる愛らしい少女たち。
“ガクブチ”のなかで各々が自らの美しさを誇っているような光景は、色とりどりの羽根をもって愛を得る鳥の姿にも似て、甘美で背徳的な空間を想う。根橋洋一の不思議な世界を堪能した。

*どちらも6月24日まで開催中。
2009.06.18(22:08)|展覧会感想コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
プロフィール

古谷 葵

Author:古谷 葵

Blog title:
Koumori to Namekuji no Utage

箱詰人形などとも名乗っております。
怠惰な日々を過ごし中。
twitter:@hako_guru
mail:hako.zaregoto@gmail.com

猟奇唄
猟奇唄 (上) コシーナ文庫
猟奇唄 (上)間 武

三行詩集『猟奇唄』の表紙絵と挿絵を描かせていただいてます。
取扱書店:ジュンク堂池袋店/大阪中崎町・書肆アラビク/アマゾン
Dodgson Vo.1
◆Dodgson Vo.1 「漂流少女」◆

幼女に関する短編小説&考察を寄稿させていただいています。
書肆CAVE
箱詰人形セレクト

ギャラリーCAVEさまのオンライン古書店<<書肆CAVE>>にて、わたくし箱詰人形がセレクト致しました“箱詰人形セレクト”なるカテゴリを設けていただいております。
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