少女漫画の美少年に恋をしていたときがある。とりわけ24年組と呼ばれる作家たちが描いた美少年、少年同士の愛には熱病に罹ったように夢中になった。「日出処の天子」「風と木の詩」「トーマの心臓」「ポーの一族」・・・。当時、なによりも愛した漫画で、もちろん今も好きだけれどあの頃の熱情とは違う。胸が膨らんで初潮がきて女になっていくことを自覚せざるをえない状況下。タルホ的A感覚の賛美と憧憬、生産性のあるV感覚を所持することへの軽蔑。毎月、血を垂れ流して身体には脂肪がまとわりついていく状態が、あまりに露骨まるでケモノじゃないかと嫌悪感でいっぱいになっていた時期。そのときに、女性的な美しい容貌を持ち得ながらも、ケモノ臭さの排除に成功し、男性の第二次性徴には黙殺という形で対抗したそれらの「美少年」は理想そのものでした。
いまこんなことをいうと御幣がありますけれど、女のほうは子供を産む機械だから、その役目は美ではないという考え方がある。男性のほうがむしろ美の対象になるんです。
幻想文学31-特集:アンドロギュヌス-1991年発行
上は日本の衆道趣味について語っているところからの引用で、昨今流行の「産む機械」で例えられていてちょっと笑ってしまったけれど読んだときには、なるほどと思った。そして少女が「少年愛」に恋をすることとは、「子宮」への否定ではないのかとも。ロリータファッションに身を包む少女たちにもそれは言えるのだと思う。子宮への否定はエロスへの否定にもつながっていく。萩尾望都の「ポーの一族」での吸血鬼は、薔薇のお茶を飲み、血は直に吸わずに指先からエナジーとして抽出する永遠を生きる少年たちで、その透明な美しさは喉から手が吐き出るぐらいにうらやましかったけれど、今は丸尾末広の「笑う吸血鬼」の血に欲情しながら殺戮をし、永遠の老人として生きなければならない運命を持つ少年少女の方がより心惹かれるようになった。
子宮の拒否から許容へ。
エロスの否定から肯定へ。
血生臭さの忌避から愛着へ。
なんか自分でも何書いてるのかよくわからなくなってきてしまったけど、まとめるならば「お母さん、もう一度僕を妊娠してください」ということ?です。