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2007.06.23(00:00)|両性具有コメント(0)トラックバック(0)TOP↑

レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の作品「洗礼者ヨハネ」は今では両性具有絵画の代表的存在として知られている。男性にしては丸みを帯びたなまめかしい体躯。男にも女にもみえる容貌は美しく、聖者というにはあまりも淫靡な笑みを浮かべている。そして、天を指差すその姿は、道を示すというよりも、邪悪な意図すら感じさせる。

多くの画家が描いたヨハネが逞しく思慮深さを瞳に湛えた男であるのに対して、ダ・ヴィンチはなぜこうも妖しいヨハネを描いたのだろうか。わたしの想像でしかないが、おそらく、ダ・ヴィンチにとって完全なる美とは男と女、聖と邪など相反するものが融合した状態であり、最後にそれを具現化しようとしたからではないかと考えている。

人が「美しい」と褒めるとき、その対象が女性か男性かでは連想する姿は大きく異なる。女性の美しさ、男性の美しさが違うのは当たり前のことだからだ。

けれど、少年や少女の場合においての「美しい」は同線上のものと思う。例えば、わたしが敬愛している伊藤潤二、丸尾末広、山本タカト、彼らの描く美少年と美少女はときに一卵性双生児のごとく似ている。大人の男性を描くときの表現手法を見れば、それが描き分けの問題ではないということはよく分かる。少年に対しても少女に対しても、理想的な美の基準が同じであるがゆえのことなのだろう。

衆道趣味が盛んだった時代、少年の美しさは桜に例えられたりもした。美しく咲いて散っていく様が、少年美のはかなさと重なるからと云う。

しかし、わたしは少女においても、男性の「それ」ほどではなくとも、脂肪に包まれていく身体はかつての軽さは失われ、すらりと伸びた腕や足は重みに囚われていく、その変化には哀しいものを感じさせられる。

男性は鋭角的に、女性は曲線的となり、もはや、そこに性の境界が混じりあうことはない。

わたしが「両性具有者(アンドロギュヌス)」に惹かれるのは、二次性徴の否定とともに肉体的には成熟した体躯を持ち得る、極めて人工的な美を結集した存在だからだ。ユートピア憧憬と同じく、人が考えうる限りの美しさを求めるその観念自体に強い魅力が内包されている。

「モナリザ」や「最後の晩餐」などさまざまな傑作を生み出したダ・ヴィンチだが、彼にとっての最高傑作は「洗礼者ヨハネ」だとわたしは信じている。

2007.06.23(00:00)|両性具有コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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