蝙蝠と蛞蝓の宴両性具有
> 少女の異常な愛情
―または私は如何にして現実を直視するのを止めて両性具有を愛するようになったか。

と、『博士の異常な愛情』をもじるというあまりに使い古されたパロディで、しかもたいして上手くもないという哀しさを滲ませながら、この嗜好癖の始まりを書き連ねていきたいと思う。このブログに両性具有カテゴリが存在していることからも察してもらえるのではと思うが、わたしは形而上の、観念としての両性具有者に魅せられ続けている。どうして彼の存在を愛するようになったのか、を今一度振り返りながら書いてみるとしよう。

三島由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』では、幼い頃の主人公が絵本に描かれたジャンヌ・ダルクに魅せられるが、後にそれが女性であることを知って、失望した体験が書かれている。美しい青年が纏った死の芳香に惹きつけられたのだからその反応は自然なものだ。
似ているといえるのかわからないが、わたしもまた性別の誤認という洗礼、男性であると信じて心惹かれた登場人物が男性ではなかった、という体験がある。小学生の頃のことだ。わたしは父がどこからかもらってきた漫画を毎晩もくもくと読んでいた。そんなとき永井豪の漫画『デビルマン』を読む。わたしはその漫画の登場人物である飛鳥了に恋をしていた。主人公の親友である飛鳥了はクールでハンサムな男の子だった。しかし物語の終盤になると飛鳥了の正体はサタンであり、主人公の最も憎むべき敵であり、主人公に恋をした両性具有者であることが明らかになる。
衝撃だった。男性と思い込んでいた存在がいきなり乳房を持って現れるのだ。これが女であったならば、『仮面の告白』の主人公と同じく、失望や落胆することも可能だったのかもしれない。でも彼は両性なのだ。男でもあるのだから恋の対象としての位置が揺らぐことはなかった。それに、彼の豊かな乳房は、母の乳房に未だ愛着を持っていた子供には、平らな胸板よりもずっと素敵に思えた。もともと母と姉が大の宝塚歌劇のファンだったため、女性扮する男役が最もかっこいいとされている環境のなかで育ったので、ジェンダーの迷宮に彷徨っていた時期でもあったのだろう。そのときはまだ漠然とした興奮ではあったが、それがわたしの今に至る嗜好を決定付ける始まりであったことは疑いない。

中学生になった頃、わたしは鬱屈とした日々を過ごしていた。自己嫌悪が酷く鏡を見ると吐き気がした。女子であるということに罪悪感を抱いていた。みっともなくてだらしなくて成績も悪く社交性も協調性も欠けている。髪はぼさぼさで制服もすぐ皺だらけになっていて清潔感もない、およそ女子という言葉のイメージから想像する姿とはかけ離れた子供だったのだ。思うに思春期に差しかかっていく男の子にとって、“そういう子”が“女子”であるというのは何か許し難い気持ちにさせてしまうものなのかもしれない。だからこそ、「あいつは女子として認めていない」という類の言葉を何度も耳にすることになったのではないだろうか。あまり自身の性を認識することなく育っていたわたしは、学生生活のなかで女子であると勝手に強制されたうえにそのカテゴリから追い出そうとする圧力を受けるという、それはえらく理不尽な仕打ちを受けることになったのだ。
自信のなさ故に周囲の基準に迎合することを余儀なくされたわたしは、自らを“女子”ではないのだと定義せざるを得なかった。では一体何なのだろうか、という疑問がそこで芽生える。
自らを男性的であると思ったことはない。男の子が主人公の冒険小説は大好きだったが、自己の性自認について迷いを抱いたことはなかった。ただ“すべて”はわたしの外側に在るのだと感じるようになっていった。

そのような様々な障壁に躓き疲れ果てながらも、それまでの経験によって、わたしが最も欠けているものは美というものなのではないかと確信を抱くようになる。周囲を眺めれば、充足した美を与えられている者もいれば、少し程しか与えられていない者もいる。しかしわたしはどうだろう。一切与えられていないではないか。わたしは生まれながらにして美を持ち得ていない不具者である。美を欠片ほどでも持っていたならば、内側に入ることが出来たに違いない、という考えに固執していった。

周囲の女子より少しばかり遅い初潮を迎え、ますます不安定な精神状態を抱えながら、学校生活は続く。思春期の女の子が、少女と見紛うかのような美少年に、少年のような凛とした美少女に、羨望や憧れを抱くことは珍しいことではない。わたしもその一人だった。自らの性別の決定にいよいよ直面しなければならない時期に、ジェンダーの縛りから抜け出しているかのような様相は、もしかしたら逃避することが可能なのではないかという希望を齎してくれる存在だったのだ。相変わらずに“女子”であることに罪悪を感じていたわたしは当たり前のようにそれらの存在に執着していく。小説や映画、漫画に出てくる中性的な人物をA4ノートに箇条書きで書きとめるほどには熱をもっていた。
『風と木の詩』や『日出処の天子』などの、美は愛されるものであるという価値基準を前提に美少年が愛されている漫画はわたしの嗜好によく合うものだった。

<少女のような美少年は女性たちに愛されつつ男性から求愛されなければならない>
<少年のような美少女は少女たちに恋されつつ男性から求愛されなければならない>

あるとき、わたしの理念には、対称性が保たれていないことに気が付いた。上のどちらも女性に愛されつつも“男性”という愛を獲得することでわたしの心を満たしていたからだ。完全に対称とならないのはどうしてだろうか。性指向の問題なのかとも考えたが、わたしが両方の性別を持っていないことで、片側の性に属しているという事実ゆえに、不均衡を生じさせるのだと結論づけた。この結論からわたしはより完全な理想を考察することになる。自らが女であるという自覚から逃れるために模索していた思考によって、わたしは女という性別にいる、という認識を確立することになったのは皮肉な話である。

とにかく完全なものを追い求めていたわたしは、円や対称という概念は大切なものであった。発端が男性と女性の性差にあったのだからシンメトリー(対称)であることへの拘りが強く深いのも当然である。とりあえずなにが問題となるのかを考えていくことにした。わたしが愛したということでどんな形であろうと女性の愛を獲得することは成立している。ならば、問題となるのは男性からの愛情だ。

男性作家が少女への愛を語る小説は何度か読む機会があった。わたしは男性が少年を愛している文献を探すことにした。最初に手にしたのは、須永朝彦の『泰西少年愛読本』だったと記憶している。少年愛の小説が翻訳され収録されていた。そして、稲垣足穂の『少年愛の美学』や、中井英夫の『虚無への供物』なども含め、男性作家による少年愛が題材となっている本を読み進めていった。日本では衆道と呼ばれる少年を愛する行為が長らく行われていたことも知った。ああ、やはり美は両性からの愛を獲得する存在となるのだとわたしは喜びを覚えた。そんな流れから、司馬遼太郎の『新撰組血風録』に収録されている短編『前髪の惣三郎』を読み、第二次性徴の否定について考え始めた。新撰組隊士を恋に狂わせ破滅させていく若者、惣三郎は18歳を過ぎても前髪をおろしていない。あの時代の男子は前髪があるということは大人ではないということになる。惣三郎は、稚児の時代を過ぎていてもなお前髪の似合う、愛される対象として、魔性を体現している。自らの意思により前髪を残すことで成長を拒絶し、保たれた美によってそれを成功させている。
年齢による性差の広がりを拒絶し、未分化の性であり続けるという魅力。未成熟であるということは老いという緩やかな死から最も遠いところにある。生殖とは関係なく愛されることだけを享受できるのだ。

成長の拒否という主題に興味をもったわたしは、それにより少女に対する嗜好にも変化が訪れる。今までは中性的な少女を主眼においていたのが、女に成る事を否定した少女にも強烈な魅力を感じるようになったのだ。そこからいわゆるロリィタな文化への敬意や、永遠の少女と腐敗しない屍体への憧憬がイコールで結び付けられて、それらが混ざり合ってわたしの人形愛嗜好へとも繋がっていくのだが、ここでは省略しておくとしよう。

それでもわたしは未成熟であることを肯定し続けることはできなかった。自分の体が大人へと変化していったからかもしれない。子供のときにみた豊かな乳房を持つ飛鳥了の絵が脳に焼き付いていたからかもしれない。そうして、成熟しながらも未分化である存在を求め始めた。
ここで吸血鬼という概念が現れてくる。若くありながら老年でもあり、繁殖(同種族を殖やす)行為を血液によって媒介することで、性別というものが限りなく無意味となっていく。永遠の命を与える選択は吸血鬼自身に任されているため、唯美主義世界に陥っていきやすいと考えられる。美しい者だけが選別されていく素晴らしき理想郷。吸血鬼幻想はこうやってわたしの嗜好へと取り込まれていった。吸血鬼=生きている屍体、という連鎖から前途の永遠の少女への憧憬とも関係していくのだが、やはりここでは省略しておきたい。

しかし、それでも完全にはならないとわたしは苛立った。シンメトリーへの拘りが、吸血鬼に魅了されながらも、美しい青年に血を吸われる美しい女性というモチーフにもっとも心惹かれてしまった事実をもって、由とするわけにはいかなかったからだ。

迷走は続く。江戸川乱歩の『孤島の鬼』を読んだときに何か近づいてきたという感触を得た。人工的にシャム双生児とされてしまった二人の男女。無垢で美しい心を持つ美女と邪悪な心を持つ醜男。人為的とはいえ一体の身体に男女、正邪、醜美を持っている。美という概念に拘泥しながら、ここで醜のあり方に感銘を受ける。醜によって成立するのが美なのだとすれば醜さとは思っていたよりもずっと力を持っているのだ。わたしはこの発見に嬉しくなったのだが、ただ問題となったのは、どちらかの性がどちらかの性の為に貶められることは避けたいという気持ちだった。これは少年愛の物語や、少女たちだけの閉じた世界の物語でも、何度か感じていたことだった。片方の性を殊更に蔑み否定することにより称賛を補強するやり方は不公平ではなかろうか。今ではその潔癖さ故の倒錯した世界も好ましく思えるのだが、あの時期はとにかく被害者意識が強く鬱屈としていたので、過敏にならざるを得なかったのだ。

澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を手に取ったのはそれからすぐ後のことだ。とうとう答えをみつけることが出来たと、わたしは泣きたくなった。収録されている『アンドロギュヌスについて』を何度、何度読み返したことだろうか。両性具有(アンドロギュヌス)は、男性と女性の両方の性機能を備えている。成熟した肉体でありつつ、第二次性徴によって顕著となっていく変化、男性の逞しくなっていく身体や、女性の丸みを帯びていく身体は、混ざりあうことで相殺され、少年少女という、最も両性が相似していただろう時期の容貌を持ち続けることを可能としている。女の鍾乳洞と男の水晶鉱石を持つ、美しい円のように完全な存在。愛するものをわたしはやっとみつけることが出来たのだ。幼少期に恋をした飛鳥了にようやく帰りついたとも言えるだろう。

そこからわたしは両性具有という観念の美を自己の聖域とし、それを規範として両性具有性があるものを集めていくようになった。書物、芸術、音楽、ファッションと、たとえ誰もそうとは理解してくれなくとも、わたし自身がその規範のどこかに触れていると感じたならば愛すべき対象となる。

まぁ、両性具有であるからといって、サナダムシまで愛おしく思えてしまう近頃の自分には些か問題がある気もするが、中学生時代に自己の核となる嗜好をみつけたことで、さまざまなものを好きになることが出来たことは事実である。世界がそこから広がってきたように思う。

最後に、美への称賛と同時に醜さを徹底的に貶めているかのような文章を連ねてしまったが、「わたしは醜い」という劣等感によって長年醜形恐怖症を患い続け、そこに歪んだ愛着すら覚えて、今に至っては、美を追い求めることは歪を生み、いつしか歪こそが美へと変容していくのだという考えに囚われ始めている者が綴った、強迫観念による救済の為の文章なのだと思っていただけると嬉しい。
2010.09.19(23:46)|両性具有コメント(6)トラックバック(0)TOP↑


この記事に触れても良いのか分かりませんが、

「美」というものは、社会的に育っていくものなのか、感覚的なものなのか、どちらでしょうね。
一切の社会情報が無ければ、何を美しいと感じるんだろうと気になりました。
赤ちゃんにとっては母親の笑顔でしょうか?しかし、それは母親という情報があるんですよねぇ~。
「美」というものが比較で感じるものなら、情報無しの美的感覚は成り立たないのかなぁ?
権力者の感じる「美」は、社会的に広まりやすいようですね。

古谷さんは、視野が広いと思いますよ。
From:  * 2010.09.21 23:15 * URL * [Edit] *  top↑

>紀さん
自分が生まれてから「美しい」と最初にはっきり感じたのはいつなのだろうと考えてしまいました。
思い出せないものですね。
「美」が普遍的なものなのかそうではないのか、結論が出ることはないような気もします。

視野が広いとは!ありがとうございます。
From: 古谷 葵 * 2010.09.22 21:28 * URL * [Edit] *  top↑

貴女はよくも其のカタワの美学を文章化されていらっしゃる。
其れは、心に突き刺さるものでした。
有り難う。
From: 蜻蛉 * 2010.10.15 01:06 * URL * [Edit] *  top↑

>蜻蛉さま
わたしがわたしであるということから逃れられない限り“カタワの美学”に拘り続けてしまうのだろうと思います。
読んでくださり有難うございます。
From: 古谷 葵 * 2010.10.18 17:22 * URL * [Edit] *  top↑

拝啓
 拝啓古谷様、古い記事へコメントしてしまって申し訳ありません。偶々貴女のこの記事を読ませて頂き、感銘を受けたのでコメントさせて頂きました。
 貴女様が両性具有の美学へ至ったその過程は、違う点は多々御座いますが、記事で拝見させて頂いた限りでは、私が辿った経緯と類似しているようでした。ジェンダーというものを超越した完全な存在という意味での両性具有というものは、本能として性というもの、もしくは美醜の概念に囚われる私たちにとっての一種の救いなのかもしれませんね。
From: みぞれ玉 * 2017.10.02 14:43 * URL * [Edit] *  top↑

みぞれ玉さま
コメント有り難うございます。
幼き頃のジェンダーの迷宮をさ迷っていた時のことを、何処かに記したいと思いブログに書いてから、気づけばこんなに年数が経っていました。
それでも自分の中で概念としての両性具有が核となってることは変わりありません。
この感覚を共有する方がいることに嬉しく思います。
性がある限りユートピアを求めるように両性具有という存在に惹かれ続けていく人はけっしていなくなることはないのだとそんな風に感じています。
From: 古谷 葵 * 2017.10.07 20:30 * URL * [Edit] *  top↑

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