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一時期、ほんのりと引きこもりだったのですが、部屋に閉じこもっていると、「部屋=身体」という感覚になっていくのが不思議でした。部屋にあるもの全てが「わたし」として処理されていき、たとえ家族でも、侵入されることは苦痛となってしまう。自己の境界としての「皮膚」を意識する必要がなくなっているからだろうか、かたつむりの殻みたいなものかなと考えたりもしてました。

それで、視点はまた違うのですが、樋口ヒロユキさんの日記に興味深いことが書かれていたので引用。

で、ここからはやや主観的な私のまとめなのですが、小谷さんは身体と肉体を区別して、肉体とは個人のナマの生物学的体のこと、身体とは情報のやりとりや代謝も含む「拡張された体」のこと、というふうにお話をされました。いわばmixiのネット上にいる「この私」は、私の肉体でなく電子化された身体だ、というわけ。

「身体と肉体を区別するということ」に、なるほどなあと納得したと同時にこれはとても重要なことじゃないかなと。

思い出したのは、三島由紀夫を論ずる際に、彼に「肉体はなかった」ということを語ってる方が多いことです。高橋睦郎氏は「三島は精神しかなく、肉体はなかった。肉体を得るために切腹した。」というような言及もされています。それは生物学としての肉体のことではもちろんありません。

肉体とは身体とは自己とは精神とは…。

ちっぽけな脳みそで、ぐるぐる考えてみると、頭がいっぱいいっぱいです。パンクしそうです。パンク侍です。町田康です。

…すみません。

そんなことを考えていると、土方巽の舞踏を生でみてみたかったという欲求がふつふつと湧き出てきます。さすれば、肉体と精神の真髄が感覚で捉えることが出来たようなそんな気がします。

2007.08.04(00:00)|思考文章コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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